シンプルな先生になる方法


尊敬するジュデイス先生が、アイアンガー先生との思い出を語っている記事を読んでハッとした。
同時に米国ダブがやっているPerfect Real Bodyキャンペーンにも、共感。

あの偉大なアイアンガー先生はいつも練習をしていて、生徒はそれを勉強の為に見てるんだけど、先生の練習はいつもパーフェクトなポーズを練習している訳ではなくて、失敗する時だってあるし、素晴らしいポーズをする事もある、と。ただ練習をしている姿をそのまま生徒に見せていた、と。

そういう事なんだろうな、と思った。生徒は師の素晴らしい技や美しさを求めてしまう事が多い。そして教える立場の人間も、それに応えようとして自分のパーフェクトじゃない部分を恥じ、隠そうとする。

あぁ、なんて馬鹿げた考えなんだと思う。私みたいな凡人は、先生になろうと頑張る。でもなんか色々違うな、と思い始めてきた。
ヨガを練習中は、自分に集中する事が出来ても、オフ・ザ・マットでは周囲の視線や評価を気にし過ぎて、結局「あなたは誰なの?」という問いが付いて回る。

ありのまま、と言ってもなんでもかんでもさらけ出したら良いのとは違う。日本人だし、ある程度の美意識は大事にしたい。

ただ、(便宜上)先生として「何を伝えたいのか」の部分でぶれてはいけない筈。人間としても、「どう生きたいか」の部分。
うまく隠せていると思っているのは実は自分だけで、じっくり考えれば、私も人と接する時には外見やパフォーマンスよりも、もっと奥の方を探しているし、結構見えている。

どんな信念を持った人なのか。

その部分が素敵であれば、その人が失敗しようと、例え薄っぺらい批判に晒されようと、人は応援してついてくるだろうし、どちらも生きやすいのではないか、と思う。

師と生徒。その関係性はお互いを尊重し合い、守るところを守りつつも、誠実で素直で有るべきなのだと思う。それこそパタンジャリのヨガスートラを読み解けば、第1章20節「万人にとって、誠実、エネルギー、想起、統合と知恵は実現への道を開く」という事にも繋がっていくのかも知れない。

でもこれって、人間対人間、どんな関係性においても同じかも。面倒がって、恥ずかしがって、自分の信念を隠している場合じゃないな、もう。笑

from me to me in the past,,,


*9月に公開予定の映画
今は亡きヨガの大先生、パタビジョイスとB.K.S. アイアンガーに映像で会える、ヨガのルーツを辿る映画が公開されます。今から楽しみ‼︎