「断捨離」は「捨てる」事の代名詞ではない


なんだか最近、気になっている事があります。

私の周りでも、日常生活でモノを捨てる、又は手放す事を「ダンシャリした。」と表現するようになった方々がいますが、モノを整理して捨てる事は、一世を風靡したやましたひでこさんの「断捨離」をした事にはちょっと一歩及ばず、かなと思います。


私は中学生の頃から「片付け」や「収納」なんて言葉が本の帯や雑誌のヘッドラインに書いてあるのを見ると、必ずと言って良いほどその本や雑誌を手に取ってしまう程の「片付け情報好き」でしたが、「ミニマリズム」という言葉に出会ってからは「収納」という言葉には反応しなくなっていきました。


工夫を凝らした素晴らしい収納アイディアは、私のような片付け好きには願っても無いようなトピックに見えますが、実のところ他のチームのナイスプレーを客席から見ているようなものに過ぎない、という事に気が付いてから、そういったアイディアは見る事は見るけれども、結局そこで終わってしまうようになっていました。つまり、発展性が無いのです。


それよりも、沢山の収納アイディアが必要ない程にモノを厳選する事が私の目指しているライフスタイルに近い気がして、一つのモノで多機能だったり、同じようなモノだったら「制限を決めて絶対数を減らす」方法の方がモノから受け取るエネルギー量も減り、驚く程に体が軽く、気持ち良く暮らせるようになってきました。


何かのアイディアを折角教えて貰っても、それが自分に転用出来なければ、その情報はただの言葉の断片でしか無いのです。以前までは、それが解っていなかった為に出来るだけ沢山の情報や、沢山のバラエティに富んだ考え方を知っている方が豊か、と言わんばかりに様々な情報を読み漁って取り込もうとしていました。

でも、立ち止まって考えてみると、、、

パソコンだって、容量というものが決まっています。メモリーの増設を繰り返したところで、さて、直ぐに必要な情報にアクセス出来るかと言うと、膨大な情報の中から小さな情報を見つけ出すのが困難になるのは目に見えています。それと同じで、自分の目指す生き方に必要である情報(モノ)のみを厳選して直ぐに取り出せるようにしておく事の方が遥かに汎用性があります。


私が大好きな「断捨離」と言う考え方を、改めておさらいしてみると、

断=入ってくる要らない物を断つ

捨=家にずっとある要らない物を捨てる

離=物への執着から離れる

となっています。(出典:Wikipedia)


スキあらば入ってこようとする不要なモノを断る、と言う事と、既に当たり前のように所有しているモノへの不健康な執着を手放すと言う事は、常に変化し続けている自分自身の人生を、受容している事につながります。

「捨てる」と言う行為は生まれ変わる第一歩になりうるけれど、それが山の頂上では無くて、まだまだ中腹くらい。前後の覚悟と決心が無ければ、あっという間にスタート地点へ転げ落ちてしまうくらいの危険性があるんだな、と身を引き締めているこの頃です。