世の中を吸収している幼児と、簡素化に勤しむ母のバランス
うちのもうすぐ3歳さんは、一瞬一瞬が真新しく、小さな蟻から目に見えないオバケまで、世の中の全てに興味深い視点を持って生きているのだと思います。必要の無いものなんて一つも無いし、失敗を悔やむ必要も無い。全てが生きる力になり、心を養い、体を作っていく事に繋がる。母である私はそんな風に見ています。
だからこそ、出来るだけ沢山遊んで欲しいし、見て欲しいし聞いて欲しい。考えるのはまだちょっと先のコト。失敗したら次は出来る、と励ましたい。大人の軸で考えて同じ様に縛ることの無いように気をつけたいと思っています。
一方、母の私は自分自身をしっかり見極めたいと思っていて、ブレない軸みたいなものに憧れています。だからモノの数に限らず出来るだけ生活をシンプルにして、効率良く動き、大事なものだけを残す事に可能性を感じています。
先ずは徹底的に自分の所有物と向き合い、カタを付けていく作業をしました。いえ、まだ続いています。そこから手放すモノは出来るだけ捨てないで良いように誰かにあげたり、リサイクルショップへ運びました。必要になると思い、置いておいたものの期間が長いものは、結局今の私にはもう必要の無いモノ。自分の過去よりも、未来を優先しました。
そんな作業を繰り返していると、時より主人のモノや息子のおもちゃ等に目がいくことがあります。しかし主人のモノは絶対に手を付けず、必然的に場所を移動したモノはしっかり報告しています。
問題は息子のおもちゃ。小さい子供には、周囲の大人が喜んで何か買ってあげたくなるものです。うちも例に漏れず、まだ赤ん坊の頃からちょこちょことおもちゃを戴いたり買ったりで、段々と増えてきました。最初は持っているおもちゃは全て整理しながらも息子の手の届く所に置いていましたが、ある日思い立って、おもちゃの半分は衣装ケースに仕舞い、押入れに入れました。
遊んだ後に「片付けようね」となった時に、ウンザリする量は明らかに多いと思ったのです。自分の手の中で把握出来る量が、実際の適正量だと感じています。なんて言われるかな、とドキドキしていましたが、押入れに半分仕舞っても、全然文句が付きませんでした。それどころか、おもちゃの配置が変わったりした事で逆に新鮮に見えるのか、あまり遊んでいなかったおもちゃでもかぶりついて遊んでいました。
確信しました。沢山のおもちゃを与えればその子がより幸せになる訳では無い、という事を。
3歳近くになると「ごっこ遊び」が始まります。電車や飛行機のおもちゃを持ちながら、みんなで会話したりして遊んでいます。このくらいの時期には、おもちゃの種類よりはむしろ、創造性が遊びを楽しくしてくれます。その創造性を巧く引き出してあげられるように、私は工夫しておもちゃを選んだり、つきあってあげられれば、息子にとって楽しみながら経験を積ませてあげられるかな、と思っています。
大事なのは、どんな風に時間を使えたか、という事なのかな…。
まだまだ母としての役割を模索修行中です。。
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